来週からひよっこの再放送が始まると聞いて、ワクワクのとまらない金澤です。こんにちは。
ひよっこ最高なんですよ、終盤こそ脚本家さんが体調崩されたとかでちょっと座談会になりがちなんですが、すごく面白いドラマなので是非見てほしい。
あとアニメの「映像研には手を出すな!」の浅草氏の中の人が米屋の娘として出てくるのですがまあアクの強いキャラなのでぜひ。
で、ひよっこで思い出したんですけど、ひよっこの終盤ってなんていうか「猛スピードで幸せになる」展開なんですよね。いろんな登場人物が次々幸せになっていくわけで。
それに対してBKの傑作「あさが来た」は、終盤「猛スピードで死んでいく」展開なわけです。一週間あたり1人、金曜日の回で死ぬのが何週間か続きます。ちなみにあさが来たが終わったあとの「とと姉ちゃん」でも第一週の金曜日にヒロインの父親が亡くなりますがそれはさておき。
別にあさが来たが悪いとかそういうことじゃなくて、あさが来たの本放送のときは毎週涙してました。最終週で進次郎さんが亡くなったときはそりゃもう泣きました。
つまり、お芝居をつくるにあたり、「悲しい→涙出る→すっきりする」というカタルシスと、「嬉しい→気分がいい→すっきりする」というカタルシスは、同じものとして扱えるのではないか……と思ったわけです。
なんかよくわかんないこと書き散らしてますけど、行き着くところが「すっきりする」だから人は物語を摂取するわけですよね。悲恋の物語もハッピーエンドの物語も売れてるわけですから。
まあ例外として「次巻に続く!刮目して待て!汝、目を逸らすなかれ!」ってタイプの終わり方するパターンはありますけど、それにしたってお話は着地するわけで(だから今でも「救世主だった僕が三千年後の世界で土を掘る理由」と「君と僕との世界再変」の続き出ないの恨んでます)。
でも読書とかドラマとか映画とかRPGってカタルシスを求めてその作品に触れるわけです。だから、そこにどんな手段でカタルシスがあるかはあんまり関係なくて、より大きなカタルシスが得られる、というのが大事なんではないでしょうか。
たとえば「真田丸」は滅びていくものの美学という悲しいカタルシス、「おんな城主直虎」は万千代の「考えましょう、これからの徳川家を!!」という明るいカタルシスがあって、どちらもとても面白かったんですよね。
創作論を開陳したらアカンとノベネムさん(ツイッターのbotですね)に言われているのについ語ってしまいました。ずっと言いたかったんですよ、この話……。
とにかく「ひよっこ」面白いんでみんな観てください。夕方に二話ずつ放送されます。相撲や国会でよく飛びますが。
ただNHKがこの夕方の枠の朝ドラ再放送を始めたせいで民放の秋田県に局のないドラマの放送の枠と被っちゃって録画できないんですよね……。秋田県にもTBSはよ……テレ東はよ……。
ひよっこの見どころはなんといっても「市井の人々の当たり前の暮らし」ですかね。夢を叶えるとかじゃなくて、ホントに普通の、どこにでもある暮らしです。ヒロインのみね子には朝ドラヒロインくさい夢はありません。家族のために働きに出て工場に勤めて、そこで素敵な仲間たちに巡りあい、「幸せになるため生きる」のです。
個人的な推しはなんといっても澄子です。可愛いのに頭のネジがゆるい。そして水着のチョイスw
長くなりましたが推しドラマについて朝ドラオタクに語らせるとこうなるの例です。
あと、「祝祭と予感」読んだんですけど、感想を書けるほどまとまった分量じゃなかったんですよね。でも最後の話は良かったです。
来月はもっとゴリゴリ読書するぞ。